「ごめんください」
静まり返った玄関に声を響かせても、返事はなかった。客の姿どころか、従業員の気配すら感じられない。俺――寺地達弘は、本当にここが旅館なのか不安になりながら、古びた木の扉の前に立っていた。
この旅館の名前は「月寝楼」。山奥にひっそりと佇む、小さな温泉宿だった。
俺がここへ来たのは、ただ偶然だった。
幼い頃から施設で育ち、家族というものを知らずに生きてきた俺は、高校卒業後、先生の紹介で高級料亭へ入り、板前の修業を始めた。
そこで出会った親方は、厳しい人だった。
「技術だけでは一流の料理人にはなれない。食べる人の気持ちを考えろ」
何度もそう教えられた。
六年間、親方のもとで必死に料理を学び、ようやく一人前になった頃、親方は病に倒れた。そして最後に俺へ託した言葉があった。
「川西のことを頼む。あいつは腕は一流だが、料理を食べる人の心を忘れる時がある。お前が止めてやってくれ」
川西さんは、親方が後継者に選んだ俺の兄弟子だった。確かな技術を持ち、多くの客から評価される料理人。しかし、親方がいなくなった後、彼は次第に料理への考え方を変えていった。
高価な食材、派手な盛り付け、完璧な技術。
だが、そこには食べる人への温かさが少しずつ失われていた。
俺は何度も伝えた。
「料理は腕を競うためだけのものじゃありません。食べた人が幸せになるためのものです」
しかし、その言葉が届くことはなかった。
親方との約束を守れなかった自分を責めながら、俺は店を辞めた。
その後、一年間、日本中を旅した。
美味しい料理を食べ、人の笑顔を見るうちに、俺は改めて気づいた。
自分が本当に好きなのは、料理の評価ではなく、誰かが「美味しい」と笑ってくれる瞬間なのだと。
記事はまだ終了していません。次のページをクリックしてください
引用元:https://www.youtube.com/watch?v=uHMC1-W6i34,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]