この男の名は船坂弘。彼の名は個人の戦闘記録として唯一、公式な戦史にその名を刻まれている。しかし、その伝説は単なる武勇伝では終わらない。不死身と呼ばれた男の、壮絶すぎる実話である。
舞台は後に「地獄の泥沼」と称された太平洋戦争の激戦地、アンガウルの戦い。船坂は、この地でたった一人で200人もの米兵を殺傷するという、鬼神のごとき戦いぶりを見せた。
しかし、その代償は大きかった。左大腿部に銃弾を受け、戦火の真っただ中で数時間放置された末に、ようやく駆けつけた軍医から渡されたのは、治療道具ではなく、自決用の手榴弾だった。
もはやこれまでか。しかし、船坂の生命力は尽きていなかった。彼は、包帯代わりに日章旗を足に巻き付け、夜通し這って洞窟陣地へと生還。驚くべきことに、翌日には歩けるまでに回復していたという。
だが、彼の戦いはまだ終わらない。食料も水も尽き、腹部に新たな銃創を負い、再び這うことしかできなくなった船坂。傷口にはウジが湧き、ついに自決を決意して手榴弾のピンを抜く。しかし、なぜか手榴弾は不発。運命は、彼に死ぬことすら許さなかった。
「ならばせめて、一矢報いん」。彼は、米軍司令部への単身切り込みを決意する。傷口のウジは、手榴弾の火薬を流し込んで撃退。数日間、飲まず食わずで敵陣を目指し、ついに米兵が集まる地点にたどり着いた。最後の力を振り絞り、手榴弾のピンを抜いた瞬間、彼の頸部に銃弾が撃ち込まれ、ついにその場に倒れた。
米兵たちは、そのあまりの執念と勇敢さに敬意を表し、亡骸を野戦病院へと運んだ。
しかし、その3日後。船坂は、何事もなかったかのように目を覚ます。敵に情けをかけられたと感じた彼は、怒り狂い、病院内をめちゃくちゃに破壊したという。
これだけでは終わらない。翌日、彼は亡くなった日本兵の遺体から弾丸を抜き取ると、それを使って米軍の火薬庫を爆破。そして、何食わぬ顔で収容所に戻ったというから、もはやその行動は理解の範疇を超えている。
戦後、彼は大盛堂書店を渋谷に開業し、2006年、85歳でその壮絶な生涯に幕を閉じた。その生き様は、まさに「不死身」という言葉を体現した、生ける伝説そのものであった。