病気をしたとき、失って初めて気づくことがある。
歩けること。ごはんをおいしいと思えること。夜、痛みもなく眠れること。
それらがどれほど貴重だったかを、失ってからやっと知る。
写真に写された一冊の本。そこに書かれていた最後の一行が、静かに多くの人の心を動かしている。
「人間の最大の不幸は、自分が幸せだと気づかないことです。」
この一行を読んで、コメント欄にはさまざまな“今の幸せ”が綴られていた。
73歳の男性はこう書いている。
「今年5度目の激しいじんましんで2度も救急車で入院しました。牛や豚の肉が食べられなくなったけれど、妻の手料理を感謝しておいしく食べられること、そしてまだお酒が飲めることが、今の私にとっての幸せです。」
その言葉には、人生の重みと静かな喜びがあった。
別の人はこう書いている。
「休みの日、長く寝ていられると思っても、起きたら体の節々が痛い。でも、洗濯をしたり草を刈ったりして動いていると痛みが消える。仕事をしている方がまだマシかもしれないね。」
それは愚痴ではなく、“動けることのありがたさ”を語る言葉だった。
「もう少し遊べばよかった、もう少し子どもと話したかった。そう思って気づけば墓標の下。満足できないからこそ、人は育つ。」(天草市宮地岳町)
「人と比べなければ、不幸はありません。」(志村昌彦)
「気づくかではなく、幸せだと思えるか。幸せは他人が決めるものじゃない。」(下山嘉彦)
「夜、床についたときに“ありがとう”と言って眠れれば、それでいい。」(乾吉明)
たった一行の言葉が、人それぞれの“生き方の答え”を引き出していた。
「幸せ」とは、誰かが定義してくれるものではない。
誰かと比べて見つけるものでもない。
水を飲めば、水の味がする。そんな当たり前が、ありがたい。
コメント欄にあったこの一言が、すべてを語っているように思う。
気づけた人は、もうすでに幸せなのだ。それを見落としてしまうこと——それこそが、きっと“最大の不幸”なのかもしれない。