家族旅行の二日目、海沿いの小さな町は朝から穏やかな光に包まれていた。娘はホテルの窓から見える波に歓声を上げ、私はようやく肩の力が抜けた気がしていた。仕事と家事に追われる日々の中で、この旅行だけは「家族の時間」として大切にしたかった。夫も出発前までは「久しぶりにゆっくりしよう」と言っていたのに、その言葉がどれほど脆いものだったかを、私はその日の昼前に思い知らされることになる。
昼食を終え、次の観光地へ向かう準備をしていた時、夫のスマートフォンが鳴った。画面に表示された名前は義母。夫は一瞬だけ表情を引き締め、私に目で「ちょっと待って」と合図して通話に出た。最初は短い相づちが続くだけだったが、次第に声が低くなり、背筋が固くなるのが分かった。
「……今から、帰省しなさい?」
夫が復唱した言葉は、私の胸に冷たい針のように刺さった。通話口から義母の声は聞こえない。けれど、その言い方だけで十分だった。相談ではなく命令。事情の説明でもなく指示。旅行中だと分かっていても、こちらの都合など関係ないという圧力が、夫の横顔に浮かんでいた。
電話を切った夫は、私と娘を見て言った。
「予定変更で実家に行く。母さんが『今から帰ってこい』って。ちょっと急ぎなんだ」
私は言葉を選びながら、慎重に返した。
「そんなの無茶よ。今ここにいるのよ? 娘だって楽しみにしてたし、明日の予定も全部立ててある。まず理由を聞いて、落ち着いて話し合えないの?」
しかし夫は、すでに結論を出していた。旅程ではなく、義母の一言を優先する、と。
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