夫の声は、いつもの「外向きの声」だった。
少し忙しそうに、少し面倒そうに。
「今、職場で仕事! なに?」
私は玄関の前で、スマホを耳に当てた。隣には、ランドセルを背負った息子。夕方の風が冷たく、息子は鍵穴を何度も見つめている。扉の向こうからは、かすかに人の気配がした。
私は落ち着いた声で言った。
「家で不倫中にごめんね。息子が家に入れないから、鍵開けてくれる?」
一瞬、通信が切れたように静かになった。
次に聞こえたのは、息を飲む音。
「……え?」
夫の声が一段低くなる。焦りが混じる。
私の胸の中は、妙に冷静だった。ここまで来ると、怒りよりも“確認”が優先になる。
「今、職場なんでしょ。じゃあ家にいるのは誰?」
私はわざと、言葉を足さない。
夫が沈黙すればするほど、答えは勝手に輪郭を持っていく。
「な、なに言ってんだよ。
意味わかんない。俺は――」
そこまで言いかけて、夫が急に声を荒げた。
「とにかく、待ってろ! すぐ帰る!」
電話が切れた。
息子が小さく私の袖を引いた。
「ママ、パパ、すぐ来る?」
私は息子の頭を撫でた。
「大丈夫。寒いから、少し離れたところで待とう」
玄関の真正面から少しだけ位置をずらし、死角に入る。
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