花沢磨人、三十歳。都内の出版社系企業で働く彼の胸には、長いあいだ誰にも言えない感情がしまい込まれていた。相手は、同じ職場の鈴木紗季。凛とした佇まいと上品な雰囲気を持つ、美しい同僚だった。
彼女とは仕事の相談を交わすことも多く、自然と会話も増えていた。だが、紗季は既婚者だった。学生時代から交際していた相手と結婚したと聞いていたし、会社の飲み会や行事の後には、夫が迎えに来ることもあった。
車の窓越しに見えた二人の穏やかな笑顔は、いかにも幸せな夫婦そのもので、磨人は自分の想いを口にする気を完全に失っていた。
ところが、ある日突然、その前提が崩れる。
「鈴木さん、離婚したらしいよ」
社内に流れたその噂に、誰もが耳を疑った。あれほど仲睦まじく見えた夫婦が、なぜ。けれど事情を根掘り葉掘り聞ける者はおらず、ただ最近の紗季がどこか元気をなくしていた理由だけが、ようやく結びついた。
それから一か月ほど経った日のことだった。磨人が残業の合間に休憩室へ入ると、紗季が一人、窓際の席にぽつんと座っていた。蛍光灯の白い光の下で見る彼女の横顔は、以前よりも少し痩せて見えた。
「どうしたの? 元気出して」
思わずそう声をかけると、紗季はわずかに目を見開き、不思議そうに笑った。
「別に、元気がないわけじゃないのだけど」
「そうは見えなかったから」
「花沢くんこそ、さっきからずっと私のこと見ていたでしょう」
見透かされたようで、磨人は思わず視線を逸らした。
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引用元:https://www.youtube.com/watch?v=BI6Mylqjlv4,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]