通夜と葬儀を終えた夜、家の中は妙に静かだった。線香の匂いだけが残り、台所の水音がやけに大きく聞こえる。私は礼服の襟元をほどきながら、五年間の記憶が、遅れて体にのしかかってくるのを感じていた。
義母の介護は、誰かに褒められるためにやったわけではない。家族だから。そう思って、自分に言い聞かせてきた。夜中の呼び出し、食事の介助、病院の付き添い、転倒した日の救急搬送。
夫は「仕事がある」と言い、ほとんど現場にいなかった。私は一人で回した。泣き言を言う暇もなく、ただ日々を繋いだ。
それでも、葬儀が終われば、少しは労いがあると思っていた。人間だから、どこかで期待してしまっていたのだ。
だが、帰宅した夫は、玄関で私の手元を見て鼻を鳴らした。
「それ、早く脱げ。で、クリーニングだ。言われる前にやれ!」
次の瞬間、夫は礼服を私に向かって投げつけた。黒い布が顔に当たり、ボタンが頬をかすめた。私はよろけて、壁に手をついた。息が一瞬止まる。
——葬儀の夜に、礼服を投げる。
——五年間、私が何をしてきたか、何一つ見ていない。
私は礼服を床から拾った。怒鳴らない。泣かない。頭の中が、驚くほど静かだった。静かすぎて、逆に怖いくらいだった。
私はポケットの中を探った。ハンカチが入っているはずだ。涙ではなく、汗を拭くための。そう思って指を入れると、紙の角が触れた。妙に硬い。折り畳まれた書類。
取り出して広げた瞬間、心臓が一度、遅れて跳ねた。
離婚届。
しかも、夫の欄は記入済みだった。
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