夫が失踪したのは、娘がまだ小さな手で私の指を握って眠っていた頃だった。台所の引き出しに残されたのは、見慣れない督促状の束と、通帳の残高がゼロに近い現実。電話は繋がらず、職場にも姿はない。近所の噂と冷たい視線が、彼が「借金を残して消えた」ことを確定させていった。
私は泣かなかった。泣けば状況が好転するわけではないと、その夜に悟ったからだ。
まずしたのは、借用書の整理と債権者への連絡だった。頭を下げ、支払い計画を作り、夜はコンビニ、昼は清掃、週末は皿洗い。娘の前では笑う。どれだけ疲れても、弁当箱のふたを開けたときに「おいしい」と言わせるために、味付けだけは手を抜かなかった。
娘は賢い子だった。けれど、賢さは時に残酷だ。小学校高学年になる頃から、彼女は「お父さんは?」と聞かなくなった。代わりに、私の背中を見て覚えたのは、我慢と計算と、沈黙だったのだと思う。中学、高校と進むにつれ、彼女の言葉は少しずつ尖っていった。「なんでうちは貧乏なの」「なんで私だけ我慢しなきゃいけないの」。そのたび私は、同じ答えを繰り返した。
「あなたの未来だけは、守る。だから今は、一緒に踏ん張ろう。」
13年は長い。けれど、振り返れば短くもあった。娘は奨学金とアルバイトで大学へ進学し、私は借金の残りを数える指がようやく少なくなっていた。卒業式の日、私は古いスーツの袖を整えながら、胸の奥が熱くなるのを感じていた。ここまで来た。倒れずに、逃げずに、たどり着いた。
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