夜のリビングは、時計の秒針だけがやけに大きく響いていました。娘は自室で眠り、両親は客間で休んでいる。私は温め直したお茶を一口だけ飲み、夫が帰ってくるのを待っていました。胸の奥は冷えているのに、頭だけが不思議なほど冴えていました。
玄関の鍵が回る音。夫がネクタイを緩めながら入ってくる。疲れた顔を作っているのに、どこか浮ついた空気がある。
私は立ち上がらず、ソファに座ったまま言いました。
「話があるんでしょ」
夫は一瞬だけ目を泳がせ、それから覚悟を決めたように口を開きました。
「……海外転勤になった。来月からだ」
「そう」
短く返すと、夫は少し苛立ったように続けました。
「それで、向こうには……一緒に行く人がいる。社内の人だ。つまり、そういうことだ。もう終わりにしよう」
私は頷きました。驚かない自分に、夫の方が驚いたようでした。
「離婚でいい。金はやる。だから両親と娘はよろしく。お前が面倒見てくれ」
その言い方が、まるで荷物の受け渡しのようで、私は思わず笑いそうになりました。
けれど、笑う代わりに、静かに言いました。
「いいよ。でも、お金は不要ね」
夫の眉が跳ね上がりました。
「は? どうやって暮らすんだよ。意地張るな。生活費だって——」
「意地じゃない。いらないの」
夫は苛立ちを隠さず、声を強めました。
「じゃあ何で生きていくんだよ! 娘の学費は? 親の世話は? 現実見ろよ!」
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