葬儀場の控室は、線香の匂いと湿った沈黙で満ちていた。祭壇の前に飾られた遺影は、まだ幼い娘の笑顔のまま動かない。私は喉の奥が焼けるように痛くて、泣くことすらうまくできなかった。
娘が亡くなったのは三日前。事故だった。救急車のサイレン、医師の言葉、書類の山。現実は容赦なく、私の心を置き去りにして進んでいった。夫には何度も連絡した。
電話は鳴るだけ。既読にもならない。仕事かもしれない、と自分に言い聞かせながら、私は通夜と葬儀の準備をひとりで進めた。
式が始まる直前、スマートフォンが震えた。通知に表示された名前を見て、手が止まる。
――妹。
胸の奥に、嫌な予感がすっと差し込んだ。通話に出ると、潮風と笑い声が混じった音が耳に入った。明らかに旅行先の空気だ。
「お姉ちゃん、ほんと助かった! 娘預かってくれてサンキュー。こっちはめっちゃ楽しいわ」
私は一瞬、何も言えなかった。言葉が理解に追いつかない。喉が震え、音が出ない。それでも、目の前の遺影だけは、静かに私を見ていた。
「……今、葬儀中だけど」
沈黙が落ちた。潮風の音が急に遠くなる。
「え?」
妹の声が裏返る。私は息を吸った。吸ったはずなのに、胸が苦しい。
「娘は亡くなった。あなたが“預かってる”と思っていた娘は、今ここにいる。祭壇の前に」
電話の向こうで、誰かが「どうした?」と聞く声がした。次に、妹が小さく呟く。
「うそ……だって、お兄さんが……」
その瞬間、世界の輪郭がはっきりした。夫が、妹に何かを言っていた。
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