葬儀が終わった夜、部屋の空気は冷え切っていた。線香の匂いがまだ髪に残り、私の胸の奥だけが妙に熱い。母の遺言が読み上げられた瞬間から、ずっと同じ言葉が頭の中で反響している。
——母さんは、私を見捨てたの?
遺産の内容は、あまりにも露骨だった。姉には駅前のタワーマンション。名義変更の手続きまで整っているという。さらに宝石箱。ライトを当てると煌めく指輪やネックレスが、ずらりと並んでいた。
一方で、私に渡されたのは、汚い使いかけの日記帳だった。角は擦れて、表紙の端はめくれ、ページの隅にはコーヒーか何かの染み。新品のノートならともかく、これは明らかに“途中”のものだ。
弁護士は丁寧な口調で言った。
「お母さまは『これだけは必ず次女に渡してほしい』と、繰り返し仰っていました」
その言葉は、慰めにもならなかった。
タワマンと宝石の横で、日記帳はあまりにみすぼらしい。私は帰宅しても、その日記を開く気になれなかった。開けば、自分が不要だった事実に触れる気がしたからだ。
けれど、その夜。眠れなかった。窓の外が少しずつ青くなり、夜明けの匂いがしてくる頃、私はとうとう日記帳を膝に乗せた。
「……見るだけ。見るだけでいい」
表紙をめくると、母の字があった。私が知っている、几帳面で少し硬い筆跡。最初のページに、日付と名前。次に続く一文で、私の呼吸が止まった。
『この日記は、あなたに渡すためのものです。読んでほしいのは、ここから最後まで。最初のページから順に読まなくていい。付箋のあるところだけ、まず開いて。』
ページの端に、色あせた付箋が何枚も貼られていた。
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