夫がその言葉を口にしたのは、月末の夜だった。私はいつも通り、家計簿アプリを開き、住宅ローンの引き落とし予定を確認していた。月三十万円。十年以上、私はその数字と一緒に暮らしてきた。残業も、副業も、休日の単発バイトも、すべてはこの家のためだった。
「ローン完済お疲れw もう用無しだから離婚!」
夫はソファにだらしなく座り、スマホをいじりながら笑った。
冗談のような語尾。だが目は本気だった。私は一瞬、耳が熱くなった。怒りが湧くはずなのに、胸の奥は不思議なほど冷えていく。まるで、ずっと先に結末を知っていた物語を読み終えたような感覚だった。
「……用無し?」
私が静かに繰り返すと、夫は得意げに続けた。
「だってそうだろ。家のローンはお前が払うって約束だったし。完済したんだから役目は終わり。これからは俺の人生を楽しむ。離婚届、ここ」
差し出された紙は、私を家政婦か何かと勘違いした人間の傲慢そのものだった。私は深呼吸をひとつして、淡々と返した。
「もう売ったけど?」
夫の笑いが止まった。
「……は?」
「家。あなたが“完済”って言ってるその家、先週売却の決済が終わってる」
夫は顔を赤くし、勢いよく立ち上がった。
「ふざけんな! 俺に相談もなく家を売れるわけ――」
私は言葉を遮らず、机の引き出しから書類を一式取り出した。売買契約書、決済の控え、残債清算の明細。
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