退院の日、私はまだ傷の痛みをこらえながら、胸の中の小さな温もりだけを頼りに病院の自動ドアを出た。新生児特有の軽い呼吸。かすかな泣き声。腕の中の命は、どんな不安も押しのけるほど尊かった。
「もうすぐ家だよ」
そう囁いて、私は夫の迎えを待った。けれど、夫は来なかった。連絡すると「先に帰ってて」と短く返ってきただけで、その後は既読にもならない。
タクシーで帰るしかなく、チャイルドシートのことも気になったが、背に腹は代えられなかった。
玄関の鍵を開けた瞬間、家の匂いが違うことに気づいた。生活の匂いが薄い。靴箱は空き、棚の上の写真立ても消え、壁に掛けていた時計もない。心臓が嫌な音を立てた。
リビングには、スーツ姿の夫が座っていた。こちらを見て笑った。祝いの笑顔ではない。冷たい、計算の笑みだった。
「おかえり。離婚だ。家も売ったから」
私は言葉を失った。赤ん坊がぐずり、私は反射的に抱き直す。夫は続けた。
「もう契約済み。ここは明け渡す。荷物も運んだ。お前の物は最低限まとめてある。ほら」
床の隅に、紙袋が二つ置かれていた。産後の身体で抱えるには重すぎる現実が、そこに縮められていた。
「……意味が分からない。私、今日退院で……赤ちゃんも……」
「だから言ってるだろ。終わり。面倒は見ない。俺、もう別の人生にするから」
視界がぐらついた。怒りより先に、恐怖が来る。赤ん坊を抱えたまま、私はどこへ行けばいい。実家は遠い。両親はいない。頼れる友人も、今夜すぐに動けるとは限らない。
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