雨の匂いが路地に沈み、古びた暖簾が弱々しく揺れていた。看板には「手打ち蕎麦 さくら屋」。しかし、その文字の艶は剥げ、店の中も空席ばかりだった。店主の佐々木は帳簿を閉じるたび、胸の奥が硬くなるのを感じていた。家賃、仕入れ、光熱費。どれも待ってはくれない。倒産という二文字が、湯気より重く天井に漂っていた。
その日も昼のピークを過ぎ、油の香りだけが残っていた。
佐々木は天ぷら用の海老を数尾、余り物として小皿に寄せながら、心の中で計算していた。あと何日持つ。いや、あと何杯売れれば——。
戸が静かに開いた。入ってきたのは、濡れた前髪を指で押さえた小さな少女だった。年の頃は十か、十一か。制服ではないが、妙にきちんとした身なりで、手には硬貨を握り締めている。少女は店内を見回し、恐る恐るカウンターに近づいた。
「……すみません。おそば、ありますか」
声は細いのに、言葉はまっすぐだった。佐々木は「いらっしゃい」と言いかけて、少女の手元に目を留めた。指先の間で、銀色の硬貨が一枚だけ光っている。
「いくら持ってる」
少女は少しだけ顔を伏せ、硬貨を差し出した。
「……百円です。これで、何か、食べられますか」
百円。今どき駄菓子でも足りない額だ。佐々木の胸はきゅっと痛んだ。断れば当然だ。慈善事業ではない。むしろ自分が救われたいくらいだ。それでも、少女の濡れた靴先と、空腹を隠すように背筋を伸ばす姿が、なぜか視線から離れなかった。
「温かいのがいいか」
少女は驚いたように目を上げ、こくりと頷いた。
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