私は水野守、二十四歳。黒沢メディカルロボティクスでエンジニアとして働く入社二年目の社員だ。女手一つで私を育ててくれた母の弓が倒れ、遠方の専門病院での治療が必要になった。治療費は合計で約五百八十万円。銀行の融資は勤続年数の短さを理由に断られ、会社の特例貸し付けも上限額が足りなかった。人事から上がった特例申請は、最終的に社長である黒沢連の元へ相談として上がっていった。
翌日、社長室に呼び出された私は、社長から「五百八十万必要なのか」とだけ問われた。「制度としては通せない」。最終宣告だと思い立ち去ろうとした私を、社長は「待って」と呼び止めた。差し出されたのは一枚の契約書。表紙には「婚姻契約」と書かれていた。契約結婚だ、期間は十八ヶ月。社長は表情を変えずにそう言った。「君は金が必要で、俺は妻という肩書きを持つ人間が必要だ」。
理由を尋ねると、社長の母である大株主が、取引先との縁談と会社合併を強く望んでおり、断れば私が関わる研究部門が縮小の対象になるという事情があった。「俺は結婚と会社を混ぜるのが嫌いだ」と社長は言った。契約書には、同居はするが性的な義務はなく、資産も完全に別、五百八十万円は契約時に支給、途中でやめても返還は不要と明記されていた。
「やめる権利は最初から君にある」。社長のその言葉に、私は三日悩んだ末、サインをした。
翌日、指定した口座に五百八十万円が振り込まれた。その数字を見た時、私はトイレの個室で声を殺して泣いた。安心と、後戻りできない恐怖が混ざり合っていた。すぐさま母の治療継続の手続きを済ませ、一週間後、私たちは市役所へ婚姻届を提出した。
同居を始めると、義母からは「いくらで結婚したの」と冷たく見下され、寝室には夫婦用の大きなベッドが一つだけ用意されていた。
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