玄関のドアを開けた瞬間、旅行の余韻は霧のように消えた。
リビングの空気が、どこか“よそ者”の匂いがする。靴箱の向き、ソファのクッションの角度、床に残る微かな香水――私は嫌な予感を飲み込んで、寝室へ向かった。
ドレッサーの引き出しを開ける。
そこにあるはずの、黒いケースがない。
「……ない。私の時計が」
八十万円。金額だけの話ではない。結婚十周年に、自分の仕事の節目に、迷いに迷って買った。時間を“自分のもの”に取り戻すための証のような時計だった。
私はリビングに戻るなり、声が震えるのも構わず言った。
「泥棒よ。通報しましょう。今すぐ警察を呼ぶ」
すると夫が、顔色を変えて遮った。
「やめろ! ……母さんに家を貸してたんだ」
その一言で、空気が凍った。
「は? お義母さんに? いつ」
「旅行中だよ。ちょっと寄るだけだって……」
“ちょっと”で済む話ではない。許可もなく、私のいない家に他人を入れ、私の私物が消えた。その因果が、きれいに一本の線で繋がっていく。
私はスマートフォンを握りしめ、静かに言った。
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