雨上がりの夜だった。キッチンの換気扇が低く唸り、シンクには洗い残しの皿が重なっている。私はエプロンの紐をほどきながら、胸の奥でずっと燻っていた言葉を、ようやく形にした。
「……実家に帰らせて頂きます」
夫はソファに沈み、スマホをいじったまま目も上げない。返事がない。けれど次の瞬間、彼は急に顔を上げ、唇の端を吊り上げた。
「は? 勝手にしろよ。
なら二度と戻ってくるな!」
それだけでも十分に刺さったのに、彼は勢いに任せて追い打ちをかけた。
「離婚届、書いてから行け!」
部屋の空気が一段冷えた。私は一瞬、言葉を失った。しかし、泣き叫ぶ気にも、説得する気にもならなかった。ここまで来てなお、彼は私を引き留めるのではなく、叩き落として優位を確認したいのだ――そう理解した瞬間、私の中の迷いは不思議なほど静かに消えた。
「……分かりました」
私は棚から離婚届を取り出した。以前、何度も話し合いを求めても取り合ってもらえず、万一のために役所でもらっておいたものだ。
夫は「どうせ脅しだろ」とでも言いたげに鼻で笑い、ペンを投げるように机へ置いた。
「ほら、書けよ。どうせお前はビビってやめるんだろ」
私は黙って自分の欄を記入し、必要事項を確認した。震えはなかった。むしろ、手が驚くほど滑らかに動いた。そして夫に差し出す。
「こちらもお願いします」
夫は少しだけ眉をひそめたが、周囲の勢いを失いたくないのか、雑に名前を書き、印鑑を押した。
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