「無料」の言葉に隠された罠――呉服店の押し売りを母が見破った日私は来年、二十歳を迎える。成人式を控えた時期になると、自然と増えてくるものがある。それは振袖や着物に関するダイレクトメールだった。毎日のように届く華やかな案内状を見ながら、「とうとうこの時期が来たんだな」と感じていた。そんなある日のことだった。母が一枚のハガキを手にして、じっと眺めていた。「これ……前にゆりさんが話していた呉服屋じゃない?」そこに書かれていた名前は、テレビCMでも見かけるほど有名な呉服店――エトラ呉服店だった。実は少し前、近所に住むゆりさんから、この店についてある話を聞いていた。「絶対に気をつけてね」ゆりさんには私より一つ年上の娘さんがいる。その娘さんの成人式準備を考えていた時、エトラ呉服店から届いたダイレクトメールに目が留まったという。そこには、「浴衣の反物を無料プレゼント」と大きく書かれていた。無料でもらえるなら、と軽い気持ちで問い合わせたゆりさん。しかし、そこから状況は大きく変わった。自宅に営業担当者が訪問してきて、「せっかくなら帯も必要ですよ」「娘さんにはこちらの着物も似合いますよ」と次々に商品を勧められた。断り切れない性格だったゆりさんは、気付いた時には必要以上の商品を契約してしまい、支払額は十万円近くにまで膨らんでいた。「無料って言葉につられた自分も悪いけど……あんなやり方はひどいよ」ゆりさんは、私たちが同じ被害に遭わないように話してくれていたのだ。だから母も、最初は警戒していた。「去年ゆりさんが言っていたところよね?」「そうよ。だから、そこ以外のお店を探した方がいいと思う」私がそう言うと、母は少し考え込んだ。しかし次の瞬間、意外なことを言い出した。「でも……浴衣は欲しくない?」「え?」「ここ、無料でもらえるって書いてあるわよ」私は耳を疑った。「お母さん、何言ってるの? ゆりさんがあんな目に遭ったところでしょ?」すると母は静かに笑った。「だからよ」「え?」「人の弱みにつけ込んで商売する人たちを、そのままにしておけないでしょう」母の目には、いつもの優しい雰囲気とは違う強い意志があった。「大丈夫。私が話をつけるから」数日後、母は本当にエトラ呉服店へ連絡した。「無料で浴衣をいただけると聞いたのですが」そして、なんと自宅に営業担当者を呼んだのだった。訪問当日。母は事前に仲の良いご近所さんたちと、ゆりさんを家に招いていた。「来た来た。でも、静かにしていてね」母は笑顔で言った。「今日は家に私一人という設定だから」私は一体何をするつもりなのか、不安と期待が入り混じった気持ちで見守っていた。しばらくすると、玄関のチャイムが鳴った。「こんにちは。エトラ呉服部の者です。本日はよろしくお願いいたします」営業担当者は、いかにも感じの良い笑顔で入ってきた。「こちらが無料プレゼントの浴衣になります」そう言って広げた商品を見ながら、営業担当者はすぐに話を切り替えた。「今なら特別価格で、反物から浴衣に仕立てることもできますよ」やはり始まった。母は落ち着いた声で答えた。「結構です。仕立ては家でできますので」「ですが、プロが仕立てた方が綺麗ですよ」「大丈夫です。我が家には着物を扱える者がおりますから」営業担当者は少し表情を変えた。それでも諦めず、次々と別の商品を勧めてくる。「こちらの帯も合わせると素敵ですよ」「帯も飾りも家にありますので必要ありません」母は一歩も引かなかった。「では、お嬢さんにも選んでいただいた方が……」営業担当者が私の方を見る。しかし母はすぐに言った。「買うのは娘ではなく私です」「娘のために浴衣が欲しいだけですから、選ぶ権利はこちらにあります」その後も押し問答は続いた。一時間が経っても、母も営業担当者も譲らない。そしてついに、営業担当者が口にしてはいけない言葉を発した。「いい加減にしてください」「無料で反物だけもらえるなんて、そんな都合のいい話があるわけないでしょう」その瞬間、部屋の空気が変わった。母はゆっくりと営業担当者を見た。「今、なんとおっしゃいました?」「あなたの会社が、勝手に住所を調べて、勝手に『無料でどうぞ』というハガキを送ってきたんですよね?」「それなのに、渡せないとはどういうことですか?」営業担当者は黙り込んだ。母は続けた。「近所の方から、あなた方のやり方については聞いています」「そして、この部屋の奥には私の娘だけではありません」「来年成人式を迎える娘さんを持つお母さんもいます」そこには、以前被害に遭ったゆりさんがいた。母は静かに笑った。「あなたのお客様になる可能性がある人たちです」「これ以上、軽率な発言は控えた方がよろしいのではありませんか?」営業担当者はようやく態度を変えた。「……無料でお渡しします」しかし、すぐに続けた。「ただし、こちらの商品を購入したという形で契約書にサインをお願いします」母は即答した。「買っていないものにサインする理由はありません」そこからさらに三十分ほど話し合いが続いた。だが、母は最後まで契約書にサインしなかった。そして、約束通り本物の浴衣だけを受け取った。その様子を見ていたご近所さんたちは大盛り上がりだった。「すごいわ、あざみさん。完全勝利ね」「私も成人式の時は気をつけよう」みんな口々にそう言っていた。私はその光景を見ながら思った。「無料」という言葉は、確かに魅力的だ。でも、その裏には何か理由が隠れていることもある。大人になったら、甘い言葉ほど慎重に聞かなければならないのだと強く感じた。その後、エトラ呉服店は別の問題も次々と発覚した。許可なく私の写真を広告に使用していたことまで判明し、販売方法以外にも多くの問題が明らかになった。経営も悪化し、翌年には倒産したという。「え、私まだ浴衣をもらってないんだけど……」私は少しだけ残念に思った。しかし、それ以上に大切なことを学んだ。「ただより高いものはない」昔から言われるこの言葉は、本当にその通りなのだ。甘い誘いに乗る前に、一度立ち止まって考えること。そして、相手の言葉だけではなく、その裏にある意図を見ること。あの日、母が守ったのはただ一枚の浴衣ではなかった。悪質なやり方に負けないための、私たち自身の心だったのだ。