受付の硬いパイプ椅子に座り、私は黙って目の前の警察官を見つめていた。白い蛍光灯に照らされた深夜の警察署。冷たい床に響くのは、目の前に立つ中年警察官・江藤巡査部長の苛立った声だけだった。「お母さん、息子さんは自分の親が県警本部長だとまで話しているんですよ。親の肩書まで利用するなんて、悪質でしょう」江藤は勝ち誇ったような表情を浮かべていた。しかし、私は反論しなかった。言い返せないのではない。今ここで私が県警本部長だと名乗れば、彼らは態度を変えるだろう。だが、それでは意味がない。私が知りたいのは、権力を持つ人間への対応ではない。何の肩書も持たない普通の市民が助けを求めた時、この組織が本当に正しく動くのか。それを確かめるためだった。私は榊原彩子、52歳。その日、私は長年勤めてきた警察人生の中で、最も苦しい夜を迎えていた。朝、県警本部では私の就任式が行われていた。広い会場に並ぶ制服姿の警察官たちを前に、私は県民の安全を守る責任について語った。刑事部門での経験、警察庁での勤務。私はこれまで、数えきれない事件と向き合ってきた。警察という組織が持つ力が、時には人を救い、時には人を傷つける可能性があることも理解していた。だからこそ、私は誓ったのだ。「常に市民の立場に立つ警察であること」その言葉を述べた日の夜、まさか自分自身が一人の市民として警察署の椅子に座ることになるとは思ってもいなかった。公務を終え、自宅に戻ったのは午後9時過ぎだった。玄関を開けても、家の中は暗いままだった。「直樹……まだ帰っていないの?」息子の返事はなかった。21歳になる息子・榊原直樹は、県内の大学に通う穏やかな青年だった。派手な遊びをすることもなく、帰りが遅くなる時は必ず連絡をくれる。その日は私の本部長就任の日。朝、直樹は笑顔で言っていた。「母さん、お祝いにケーキを買って帰るよ」そんな息子が警察沙汰を起こすなど、到底考えられなかった。その時、スマートフォンが目に入った。未読のメッセージが一件。送信者は直樹だった。――駅前で問題に巻き込まれた。今、警察署で話をしている。胸の奥が冷たくなった。すぐに電話をかけた。しかし、何度かけても出ない。私は母親だった。県警本部長ではなく、ただ息子を心配する一人の母親だった。私は管轄の緑警察署へ電話をした。「榊原直樹の母親です。息子が事情を聞かれていると思うのですが」電話口の警察官はしばらく沈黙した後、事務的な声で答えた。「現在対応中です。詳しいことはお答えできません」「息子は逮捕されているのですか?」「そういうわけではありません」「では任意の事情聴取ですか?」「担当者が対応中ですので」その態度に、私は違和感を覚えた。任意の事情聴取なら、本人の意思が尊重されなければならない。帰宅を希望しているなら、その意思を確認する必要がある。私は決意した。制服は着ない。警察手帳も持たない。公用車も使わない。今夜向かうのは、県警本部長としてではない。一人の母親としてだった。紺色のコートを羽織り、自分の車で緑警察署へ向かった。夜の警察署は、冷たい空気に包まれていた。受付には若い警察官が座っていた。「榊原直樹はこちらで事情を聞かれているはずです」確認に向かった彼の後ろから現れたのが、江藤巡査部長だった。彼は私を見るなり、ため息をついた。「息子さんなら、まだ話の途中です」「帰宅できない理由を教えてください」私が尋ねると、江藤は顔をしかめた。「そういう態度を取られると困るんですよ」そして突然、声を荒らげた。「息子さんは自分の母親が県警本部長だと言っている。親の肩書まで使うなんて悪質でしょう」私は静かに問い返した。「法的に帰せない理由を説明してください」江藤は一瞬言葉に詰まった。「事情が終わっていないからです」「任意の事情聴取ですか?」「今は細かい説明をする段階ではありません」その瞬間、私は確信した。これは本部長の息子だから起きている問題ではない。肩書を持たない普通の市民にも、同じことが起きているのではないか。私は受付の椅子に座り、状況を見続けることにした。しばらくすると、義母のヒロコから電話が入った。「直樹が警察にいるって本当なの?」声には怒りが混じっていた。「あなたが仕事ばかりして、あの子を放っておくからよ」その言葉は胸に刺さった。夫を亡くしてから、私は仕事と子育ての両方を必死に背負ってきた。それでも、今ここで倒れるわけにはいかなかった。壁の向こうには、不安の中で助けを待つ息子がいる。その時、受付の若い警察官が小さく呟いた。「直樹さん……何度もお母さんに連絡したいと言っています」私は息を止めた。何度も。直樹はずっと助けを求めていたのだ。そして江藤は、それを止めていた。さらに私は机の上に置かれた記録を見る。到着時刻に不自然な空白があった。直樹が警察署にいると連絡した時間と、記録された時間が一致していない。その違和感を追及すると、江藤は苛立った表情を見せた。「息子さんは反省していないんですよ。この書類にサインすれば帰れると言っているのに」机の上には供述書が置かれていた。しかし、私はすぐに分かった。これは真実を記録したものではない。警察官が作った筋書きに、息子を当てはめようとしている。「本人が納得していないから、署名しないのではありませんか」そう告げると、江藤は机を強く叩いた。「素人が警察の仕事に口を出さないでください!」その瞬間、私は決意した。もう母親として黙っているだけではいけない。この夜、私は息子を守るだけではない。警察という組織が本当に市民のために存在しているのか、その答えを見届ける。そして、真実を明らかにすると心に誓った。深夜の警察署。白い蛍光灯の下で、県警本部長である私と、一人の母親である私は、静かに立ち上がった。この夜から、警察署内に隠されていた真実が少しずつ明らかになっていくことになる。