「本日、全湯船が水です。それでも営業します」
仕事を終えた私は、その張り紙の前で完全に固まった。
場所は、駅裏にある昔ながらの銭湯。
疲れ切った体を熱い湯に沈めることだけを楽しみに、わざわざ遠回りして来たのだ。
それなのに、全湯船が水。
つまり、お湯は一滴もない。
「いや、それなら休業でしょ」
思わず声が漏れた。
だが、張り紙には続きがあった。
「本日、入浴料金は頂戴いたしません」
「サウナは通常どおり利用できます」
私はもう一度、最初から読み直した。
営業する。
湯船は全部水。
料金は無料。
サウナだけは動いている。
怒るべきなのか。
笑うべきなのか。
それとも、このまま帰るべきなのか。
意味が分からなかった。
私は念のため、張り紙をスマホで撮影した。
あとで友人に見せても、絶対に信じてもらえないと思ったからだ。
受付へ入ると、白髪交じりの店主が申し訳なさそうに座っていた。
私は靴箱の鍵を握ったまま聞いた。
「本当に、全部水なんですか?」
店主は勢いよく立ち上がり、深く頭を下げた。
「はい。本当に申し訳ありません」
「給湯設備が、夕方に全部止まりまして」
やはり故障だった。
私は少し呆れながら言った。
「だったら今日は閉めた方がよくないですか?」
すると店主は、しばらく黙った。
そして予想外の一言を口にした。
「毎晩ここへ来る一人暮らしのお客さんが、何人もいるんです」
私は返事ができなかった。
店主は続けた。
「湯に入ることより、ここで誰かと話すことを楽しみにしている方もいます」
「突然閉めると、心配される方もいますし、こちらも顔を見ないと不安になるんです」
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