義理の親子関係となった彰子と敦康親王のその後の関係についてお話しします。
彰子は、将来的に王子の誕生が見込まれない状況の中、血の繋がらない敦康親王の実の母親以上の存在になることを求められました。まだ若いながらも、彼女は自分が王子を産むこと以上に、敦康親王の母になることを、自身の役目だと強く認識していました。成長するにつれ、両親の支えもあり、彰子は敦康親王を実の我が子のように慈しむようになりましたが、いざ自分が実の息子を産むと、道長は敦康親王を冷遇し始めます。
敦康親王が彰子の養子となるまでの道のりは、複雑なものでした。貞子が長保2年の年末に亡くなって以降、敦康親王は貞子の妹である三の宮が中心となって養育していました。しかし、貞子の死から8ヶ月後、道長は敦康親王を彰子の養子とし、自らの一族に取り込みます。
道長にとって、敦康親王は九条流の繁栄においても重要な存在でした。一条天皇の唯一の王子である敦康親王を手元に確保することが、道長の最優先事項だったのです。これにより、彰子は12歳という若さで、母親としての役割を求められることとなりました。
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