一条天皇の名、康人は平安時代中期の苦業である大江野忠光が献上したものです。一条天皇は母・明子や藤原氏の傀儡人形で自分の意思がなかったかのように捉えられていますが、果たして本当にそのような人物だったのでしょうか。
その生涯、寵愛した中宮・定子に関しては苦難を通じた一面もありますが、元々は大和で九業とも強調の姿勢を取った聡明な天皇です。
『枕草子』が目出度きこととして伝えているエピソードがあります。寛弘元年、16歳の一条天皇と20歳の定子が出会った日、中宮・定子の父である関白・道隆とその子たち、そして女房たちが集まり談笑していたところ、一条天皇が登場し、道隆たちがいるにもかかわらず、定子を堂々と抱き寄せ、白昼堂々と定子の体を求めました。
実はその一ヶ月ほど前に定子の妹・原子が東宮に会っており、この日初めて中宮のもとを訪れていたため、みんなで会食していたのです。この頃、道隆は病を患っており、余命わずかという時期でした。一条天皇が定子の父を前にしての行為は、後継問題解消のパフォーマンスだったのではないかとも考えられます。
記事はまだ終了していません。次のページをクリックしてください
引用元:https://www.youtube.com/watch?v=BNf5az62Isk,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]