幕末の会津藩ほど、「忠義」という言葉に人生を奪われた藩はなかったかもしれません。
徳川家に尽くし、朝廷を守り、京都の治安を支えたはずの会津。けれど時代がひとたび動き出すと、その忠義は称賛ではなく「朝敵」という烙印に変わりました。白虎隊の少年たちが飯盛山で自刃した悲劇は有名ですが、その背後には、藩そのものが逃げ場を失っていく残酷な運命がありました。
悲劇の始まりは、文久2年、藩主・松平容保が京都守護職を命じられたことでした。荒れ果てた京都では尊王攘夷派の浪士が暴れ、暗殺や放火が相次いでいました。幕府は都を守るため、忠誠心の厚い会津藩にその重責を押し付けたのです。
容保は当初、この任務を避けようとしました。財政は苦しく、京都へ兵を送る余裕などありません。しかも治安維持は命を狙われる危険な役目でした。それでも幕府に迫られ、会津は引き受けるしかありませんでした。この決断こそ、後の地獄への入口でした。
京都で会津藩は、新撰組を預かり、過激な浪士たちを取り締まりました。池田屋事件や禁門の変では治安維持に貢献しましたが、同時に長州や尊王攘夷派から深い憎しみを買います。
都を守ったはずの会津は、いつしか「弾圧者」と呼ばれるようになっていました。
そして慶応4年、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北します。新政府軍が錦の御旗を掲げた瞬間、戦いの意味は一変しました。会津は幕府に従っただけでなく、朝廷に逆らった存在として「朝敵」とされます。かつて孝明天皇から信頼を受けた容保にとって、それはあまりにも残酷な転落でした。
記事はまだ終了していません。次のページをクリックしてください
引用元:https://www.youtube.com/watch?v=O-6wOBYd3CQ,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]