弓さん(仮名)は、義母かず子に腎臓を提供する生体移植手術の日、病室を訪れた。しかしそこに義母の姿はなかった。同室の患者から「さっきお嫁さんと中庭へ散歩に出ましたよ」と言われ、弓さんは「私が嫁ですが」とだけ答えた。
枕元には、自分が贈った覚えのない淡いピンク色のカーディガンが置かれていた。義母は昔から派手な色を嫌い、弓さんが贈ったカーディガンを何度も突き返していた。
だが目の前のカーディガンからは、若い女性の香水の匂いがした。
弓さんは中庭に向かった。藤棚の下のベンチには、車椅子の義母と夫の工事、そして見知らぬ若い女性がいた。女性は義母の手を優しく握り、「私がずっとそばにいますからね」と話しかけていた。義母はいつも見せない満面の笑みを浮かべ、「あなたが本当の娘になってくれたら」と答えた。夫は「予定通り進める、実家の土地を売らせれば新居もすぐ変える」と続けた。
腎臓を提供することは、彼らにとってただの通過点だった。本当の目的は、弓さんが亡き父から相続した実家の土地だったのだ。
弓さんは声を荒げることなく病室へ戻った。1ヶ月前、夫の書斎を掃除中にタブレット端末の通知に気づいたことが、全ての始まりだった。
「みほ」という名前の相手から、「手術が終わったら本当にあの家売れるんだよね」「小母さんも一緒に住める広い部屋がいいね」というメッセージが届いていた。
それ以降、弓さんは自分名義の土地の権利書と実印を、夫にも見つけられない場所へ移した。共有口座の通帳を確認すると、毎月不自然な引き出しの記録があった。弁護士に相談し、調査員に依頼したところ、夫と件の女性・みほが弓さんの実家の前で不動産業者と一緒に立っている写真、そして家族カードの偽造申込書、夫とみほ、義母の3人によるメッセージのやり取りが証拠として集まった。
夫の署名がすでに記入された離婚届けも、夫の鞄から見つかっていた。
手術当日、弓さんは着替えないまま個室から出てきた。医師や倫理委員会のスタッフ、義両親、みほが集まる場で、弓さんは臓器提供の同意撤回書を提出した。夫が階段の踊り場でみほと交わした電話の録音も明らかにされた。「あいつは何も疑ってない。ただのバカな女だ」「ドナーなんてただの部品だ」という夫の声が、静まり返った病室に響いた。
手術は中止となった。義母は倫理的な問題を理由にその病院を出ることになり、遠方の療養型病院へ転院した。面会に来る家族もなく、慰謝料の支払いに追われる夫からの経済的な援助も途絶えたという。みほもまた、内容証明郵便によって不貞の事実が勤務先に知られ、退職を余儀なくされた。多額の借金を抱えたまま、返済のために働き続けているという。
弓さんは弁護士を通じて正式に離婚を成立させ、実家の権利書と実印を手元に取り戻した。長く自分を縛っていた家族という幻から離れ、新しい生活を歩み始めている。