最初にその光景を見たとき、私は思わず足を止めた。
駅の近くにある建物の通路。
壁際には、赤い消火器が置かれていた。
そこまでは何も珍しくない。
ところが、そのすぐ横に、透明なシートで保護された手書きのメモがあった。
「何これ……?」
私はしゃがんで文字を読んだ。
『お世話になっております。突然ながら、そちらの消火器をお譲りいただけないでしょうか』
一瞬、意味が分からなかった。
「消火器を譲ってほしい?」
思わず声に出してしまった。
続きには、家の火気が不安なので検討してほしい、という趣旨の文章が書かれていた。
そして最後には、
『よろしくお願いいたします』
と丁寧に締めくくられていた。
私はしばらく、その場から動けなかった。
建物の消火器を譲ってほしいなんて、聞いたことがない。
しかも、お願いの文章を紙に書き、透明なシートに入れて床に置いている。
いたずらにしては丁寧すぎる。
でも、本気のお願いだとしたら、それはそれで理解しがたい。
私は隣にいた友人に声をかけた。
「ねえ、ちょっとこれ見て」
友人は消火器の横にしゃがみ込んだ。
「何?」
「この手紙」
友人は文字を読み始めた。
そして数秒後、吹き出した。
「ちょっと待って。消火器を譲ってほしいって?」
「そう書いてあるよね」
「これ、アート作品じゃないの?」
私も同じことを考えていた。
建物の片隅に、何の説明もなく置かれた手書きのメモ。
しかも、公共の場所にある消火器を譲ってほしいという、普通では思いつかない内容。
「現代アートって言われたら、納得しそう」
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