仕事で、私はたくさんの障害のある子どもたちを見てきた。その子たちのことを説明するとき、「障害児」という言葉を使うこともあった。特別な意図があったわけではない。状況を伝えるための言葉として、深く考えずに口にしていた。
ある日、私がその言葉を使うと、9歳の息子が尋ねた。
「お母さん、『しょうがい』って何?」
私はすぐに答えられなかった。
息子は、相手が嫌だと感じる呼び方なら、別の言葉に言い換えたほうがよいのではないかと話した。その考えを聞いて、私は自分が言葉をどう使っていたか、初めて立ち止まって考えた。
息子は、障害のある子どもたちを、ほかの子より劣っているとは思っていなかった。私が仕事で接してきた子どもたちを見ても、息子にとっては同じように一人ひとりの子どもだった。
「この子たちは、ほかの子と何が違うの?」
息子にそう聞かれ、私は簡単に説明できなかった。障害があるという言葉でまとめるだけでは、その子が何に困っているのか、周囲にどんな助けが必要なのかは伝わらない。ひとくくりにしてしまえば、本人のことを理解したつもりになってしまうこともある。
息子が目にしていたのは、社会の中にある具体的な壁だった。車いすでは越えられない段差がある。点字ブロックの上に荷物が置かれ、必要な道を通れなくなる。そうした不便は、本人の身体だけに原因があるのだろうか。
私は、障害は本人の中にあるものだと、無意識に決めつけていたのかもしれない。社会の側に段差があり、必要な配慮がなければ、できることが限られてしまう。
周囲が環境を変えたり、困っていることを理解したりすれば、壁を小さくできる場合もある。
もちろん、言葉を言い換えるだけで、段差がなくなるわけではない。点字ブロックの上に置かれた荷物が片づくわけでもない。けれど、何気なく使っている言葉が誰かを傷つけていないか、困難を本人だけの問題にしていないかを考えることはできる。
息子の言葉を聞いて、私は「障害」という言葉の意味を改めて考えた。
大切なのは、呼び方だけを整えて終わりにすることではないのだと思う。どんな場面で困っているのかを知り、社会や周囲にある壁にも目を向けることが必要だ。
仕事で子どもたちを見てきた私より、息子のほうがまっすぐに問いを投げかけてくれた。あの日から私は、言葉を口にする前に、それが誰を指し、どんなふうに受け取られるのかを考えるようになった。誰かを理解したつもりにならず、目の前の人と環境に向き合うこと。息子の問いは、私にその大切さを教えてくれた。