地下鉄の車内で、隣に座っていた女性が無言で立ち上がった。
最初は、次の駅で降りるのかと思った。
でも違った。
女性はドアの前まで行くと、一度だけこちらを振り返り、少し離れた別の空席へ移動した。
その瞬間、私はようやく気づいた。
赤い服の男性が、座席の中央にどっしり腰を下ろし、大きなリュックを膝の上に抱えたまま、肘を横へ張り出していたことに。
足も少し開き気味で、隣の人が自然に座れる幅ではなかった。
本人に悪気があったのかは分からない。
眠そうに目を閉じ、ただ疲れていただけかもしれない。
けれど、隣にいた女性にとっては、それが十分な圧迫感だったのだと思う。
車内は混雑とまではいかない。
でも空席がいくつもあるほどでもない。
座れる場所を探している人が、ちらちらと座席を見ては、結局その前を通り過ぎていく。
赤い服の男性の隣だけ、ぽっかり空いている。
まるで見えない壁があるみたいだった。
しばらくして、杖をついた年配の女性が乗ってきた。
私は思わず立ち上がろうとした。
その時、先ほど席を移った女性が先に動いた。
「どうぞ、こちら座ってください」
優しい声だった。
年配の女性は小さく頭を下げて、その席に座った。
すると、近くに立っていた会社員風の男性が、赤い服の男性の方を見て言った。
「すみません。もう少し詰めてもらえますか」
車内の空気が一瞬だけ固まった。
赤い服の男性は目を開け、少し不機嫌そうに周囲を見た。
「え? 何か邪魔してます?」
その声に、先ほど席を移った女性が静かに答えた。
記事はまだ終了していません。次のページをクリックしてください