ホテルをチェックアウトする前、私はベッド脇に置かれていたメモ用紙を手に取った。
そして、いつものように短い文章を書いた。
「お掃除ありがとうございました。気持ちよく過ごせました」
最後に小さな笑顔の絵も添え、枕元に置いた。
すると、隣で荷物をまとめていた友人が、私の手元を見て笑い出した。
「またそれ書くの? なんか偽善者っぽくない?」
私は一瞬、ペンを持つ手を止めた。
「偽善者って……ただのお礼だけど」
「だって、清掃スタッフに見られるかどうかも分からないじゃん。わざわざいい人アピールしてるみたい」
友人は冗談のつもりだったのかもしれない。
けれど、その言葉が妙に引っかかった。
私はホテルに泊まるたび、部屋を出る前にできるだけ使ったタオルをまとめ、ゴミを分け、最後に一言メモを残すようにしていた。
清掃する人にとっては、毎日たくさんの部屋を片づけなければならない。
見知らぬ宿泊客が使った部屋を、次の人が気持ちよく使えるように整えてくれる。
その仕事に対して、「ありがとう」と伝えることが偽善なのだろうか。
「もし自分が掃除する側だったら、短くてもお礼が書いてあったら嬉しいと思うけどな」
そう言うと、友人は肩をすくめた。
「私は気にしないけどね」
結局、私はメモを置いたまま部屋を出た。
その日は、友人の言葉が頭から離れなかった。
帰宅してからも、何となくスマートフォンを眺めていた。
すると数日後、宿泊したホテルからメールが届いた。
件名には、「ご滞在のお礼」と書かれていた。
最初は、よくある自動メールだと思った。
しかし本文を開くと、そこには予想もしなかった文章があった。
「客室に残していただいたメッセージを、清掃担当者が拝見しました」
私は思わず画面を見つめた。
さらに、
「大変励みになったと申しております。お心遣いをありがとうございました」
と続いていた。
メモは、きちんと清掃スタッフの方に届いていたのだ。
しかも、ただ処分されるのではなく、誰かの一日を少し明るくしていた。
私はそのメールを、友人にも見せた。
友人はしばらく黙っていた。
そして、少し気まずそうに、
「……それなら、書いてもいいかもね」
とつぶやいた。
私は笑って答えた。
「うん。誰かに褒められるためじゃなくて、自分がされたら嬉しいことをするだけだから」
もちろん、全員が同じように感じるとは限らない。
メモを見ない人もいるだろうし、必要ないと思う人もいる。
それでも、たった一言で気持ちが軽くなる人がいるなら、私はこれからも書き続けたい。
ホテルを出る前に残す、小さな「ありがとう」。
それは偽善ではなく、見えない誰かへの感謝を形にしたものなのだから。