入社式の会場は、祝福の拍手よりも、過度に整えられた沈黙のほうが目立っていた。壇上のスクリーンには企業理念が輝かしく映り、役員の挨拶は滑らかに続く。だが、最前列の空気だけが、妙に冷えていた。
「底辺は身の程を知りなさいw」
その甲高い声が、静寂を裂いた。社長令嬢・美琴が、地味なスーツの新入社員・澤に歩み寄り、ためらいもなく袖を掴む。
次の瞬間、布が裂ける音がした。ビリ、と。会場に小さな失笑が走る。
澤は声を失い、唇を噛みしめた。助けも制止もない。あるのは、見て見ぬふりと、巻き込まれたくないという視線の逃避だけ。涙がこぼれ落ちたのを自覚した時には、もう止められなかった。
美琴は裂けた袖を指先で摘み上げ、汚れを払う仕草すら見せる。
「入社式でしょう? 人生の晴れ舞台なのに、みすぼらしい人が紛れ込むと雰囲気が壊れるじゃない」
くすくす、と誰かが笑う。その笑いに同調しなければ自分が次の標的になる――そんな恐怖が、会場を縛りつけていた。澤は席に座ったまま、裂けた袖を押さえようとしても手が震え、力が入らない。
そのとき、後方で一人の人事担当が、震える手でスマホを握り締めていた。
止めたい。今すぐ割って入り「やめてください」と言いたい。しかし相手は社長令嬢。声を上げた瞬間、自分の職がどうなるかは分かっていた。それでも、目の前で新人が壊されていくのを黙って見過ごすことはできない。
彼女は深く息を吸い、録画ボタンを押した。赤い点が灯る。ここから歯車が回る音はしない。けれど確実に、回り始めた。
入社式は、何事もなかったかのように進んだ。
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引用元:https://www.youtube.com/watch?v=Lf56jPEYyXo,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]