昭和46年(1971年)、東京・赤坂の一ツ木通りは、今では考えられないほど賑やかで、人々が行き交う活気に満ちた場所でした。当時の赤坂は、昭和の象徴ともいえるエリアで、東京の中心部として栄えていました。今回ご紹介するのは、そんな赤坂の一ツ木通りにまつわる記憶と、当時の街並みに潜む驚愕の出来事です。
この写真に写る一ツ木通りは、現在とは全く異なる風景が広がっています。遠くに見えるのは、TBSのビル。その存在が、赤坂がメディアの発信地として栄えた時代を象徴しています。通りの両側には、商店や飲食店が立ち並び、看板が所狭しと掲げられています。当時の赤坂は、まさに「昭和の香り」が漂う場所でした。
一ツ木通りは、当時まだ両側通行で、多くの車が行き交っていました。車やバイク、自転車、そして徒歩で移動する人々が入り混じり、活気にあふれた通りでした。しかし、この賑やかな通りにも、思わぬ危険が潜んでいたのです。
昭和46年当時、一ツ木通りはまだ両側通行が許されていました。しかし、これが原因で数多くの事故やトラブルが発生していたことは、あまり知られていません。狭い道路で両側から車が通行するため、接触事故が多発し、時には重大な事故にも繋がっていました。
特に、夜間になると街灯の少なさと、車のヘッドライトが交差することで視界が悪くなり、事故のリスクが高まっていました。
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