残業明けの朝、蛍光灯の白い光がまだ瞼の裏に残っている状態で、俺は給湯室の紙コップを握り締めていた。冴えない経理――それが、社内での俺の定位置である。数字は間違えないが、存在は目立たない。会議では端に座り、宴席では空いたグラスを見つけて回る。誰も俺に期待などしていない。少なくとも、そう思っていた。
ところがその日、部長の三浦が珍しく俺を呼び止めた。
笑顔は柔らかいが、目は逃げ道を塞ぐように真っ直ぐだ。
「悪いな。今度の週末、見合いに行ってくれないか」
聞き返す暇もなく、部長は事情を畳みかけた。取引先の重役の縁談で、相手の女性が「どうしても同年代の会社員がいい」と言っている。だが社内の独身者は皆、気まずい理由で辞退した。そこで経理の俺が選ばれたというわけだ。断る理由はいくらでもあるはずなのに、部長は「頼む、会社のためだ」とだけ言い、名刺サイズの案内状を俺の手に押し込んだ。
週末、指定されたホテルのラウンジは静かで、磨かれたカップの音だけがやけに大きい。俺は借り物のスーツの襟を直し、約束の席に座った。相手はほどなく現れた。落ち着いた紺のワンピース、整った所作、しかし、顔色はどこか強張っている。
名前は高瀬 恒一。年齢は俺と同じ三十前後だと聞いていた。
「はじめまして。……本日は、お時間をいただきありがとうございます」
形式的な挨拶のあと、会話は思うように続かなかった。彼女は質問に丁寧に答えるが、視線が時折遠くへ逃げる。俺の方も得意ではない。気まずい沈黙を埋めるために天気の話をした瞬間、彼女の指先が小さく震えた。
そして、次の瞬間だった。
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引用元:https://www.youtube.com/watch?v=Sk9X1B1685U,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]