着陸まであと三十分――その機長アナウンスを聞いた瞬間、私はようやく仕事の緊張から解放される気がして、シートに深く沈み込んだ。ところがその直後、前方の通路で甲高い声が上がり、機内の空気が一変した。成田発・上海行きの夜便は、静かな終盤を迎えるはずだった。だが私はこの時、まさかこの飛行機が再び日本の空を引き返すとは、想像もしていなかった。
声の主は通路側に立つ若い男性だった。隣には中国語で何かを小さくつぶやく女性が座っている。二人は恋人同士のようで、どうしても並んで座りたいらしい。男性は客室乗務員に身を乗り出し、席を替えてほしいと訴えていた。最初は丁寧だった口調も、断られるたびに荒くなっていく。私はイヤホンを外し、やり取りに耳を澄ませた。
時間が経つにつれ、その場の空気は重くなった。男性は通路を塞ぐように立ち、腕を大きく振って何度も抗議する。女性はほとんど言葉を発さず、ただ周囲に申し訳なさそうな視線を投げている。私の隣の席の人は時計を何度も見ては小さく息をつき、前の席の中国人女性は、ずっと膝の上で手を組んだまま俯いていた。
やがて機長の声が静まり返った機内に響いた。「安全上の理由により、成田空港へ引き返します」。一瞬、意味が理解できなかった。窓の外を見ると、さっきまで近づいていた上海の夜景が、ゆっくりと遠ざかっていく。誰かが「嘘だろ」と呟き、別の誰かは頭を抱えた。
旋回を終えた頃、前の席の中国人女性が携帯電話を取り出し、震える声で通話を始めた。
内容は分からないが、途中で言葉を詰まらせ、涙をこらえている様子が伝わってくる。仕事なのか、家族なのか、何か大切な約束があったのだろう。私も胸の奥が重くなり、窓に映る自分の顔を見つめるしかなかった。
成田に戻ると、問題の男性はすぐに警察に連れて行かれた。彼の後ろを、あの女性が静かに歩いていく。彼女は一度もこちらを振り返らず、床だけを見つめていた。
その姿が、なぜか頭から離れなかった。
翌日の代替便の案内と補償金を受け取り、私はロビーの椅子に座った。少し離れた場所で、あの女性がスーツケースに手をかけたまま立ち尽くしている。目が合うと、彼女は小さく会釈をした。私は何も言えず、ただ同じように頭を下げ返した。上海へ向かうはずだった夜は、こうして静かに終わった。
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