怒号が飛び交う会議室の中央で、私は震える一ノ瀬課長の手からペンをそっと取り上げた。
「――その署名、待ってください」
空気が凍りつく。机に並ぶのは、提携先である米国企業アトラス社との独占契約書。こちら側の主導は営業部長・近田剛、そして責任者として名指しされたのは、美人で優秀な営業二課課長――一ノ瀬類だった。
類さんは目を伏せ、指先がかすかに震えている。
彼女は強い。だが、近田部長が用意した“逃げ道のない罠”を前にして、平然を装うのがやっとだった。
私は福山港、三十歳。社内では「やる気のない無能」扱いされている。定時ぎりぎり出社、昼は一人、会議では黙り、誰より早く帰る――そう見えるように生きてきた。理由は単純だ。二度と争いの世界に戻りたくなかったから。
二年前まで、私は米国にいた。飛び級で大学を卒業し、スタンフォードでMBAを取り、ウォール街の投資銀行でM&Aをやっていた。数字の嘘を嗅ぎ分ける癖があり、同僚から“スナイパー”と呼ばれていた。だが成果主義の世界は冷酷で、信じた上司に手柄を奪われ、失敗だけ押し付けられた。心が摩耗し、私は日本へ逃げた。
学歴を偽り、経歴を消し、静かに生きると決めた。
それでも――類さんだけは、私を見捨てなかった。
「福山さんは、ちゃんと仕事してくれてるわ。少し不器用なだけよ」
誰かが私を嘲れば、彼女はいつもそう言って庇った。古い体質の会社で、女の管理職は標的になる。近田部長はあからさまに彼女を敵視し、会議のたびに揚げ足を取り、失点を待っていた。
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引用元:https://www.youtube.com/watch?v=Ul4xKjcSiA4,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]