深夜一時。山間の温泉旅館「ほのぼの旅館」は、すでに灯りを落とし、廊下には木造の軋む音だけが残っていた。玄関の鍵を確かめ、最後の見回りを終えようとした瞬間、ガラス戸の向こうに人影が揺れた。大人が一人――いや、その周囲に小さな影が幾つも重なっている。
こんな時間に、ここへ来る者などいない。最寄りの町までは歩けば二時間、終電はとうに終わり、コンビニすら車で二十分。
胸騒ぎに突き動かされ、私は玄関の戸を開けた。
冷たい夜気とともに、息が詰まるほどの異臭が流れ込んできた。蒸れた雑巾、生乾きの洗濯物、腐った果物、発酵したアンモニア――何日も風呂に入れなかった人間の匂いが、複数人分、重く絡み合っている。思わず顔をしかめそうになり、私は歯を食いしばった。
そこに立っていたのは、五人の子どもを連れた母親だった。月明かりに照らされた顔は疲労で青白く、目の下には深い隈。髪は油で束になり、服は汚れて色褪せている。背中には赤子が一人、腕にはもう一人。双子だろうか、同じくらいの大きさで、薄汚れた毛布に包まれ、かすかな寝息を立てていた。
母親は震える声で言った。
「……あのう、こんな時間にすみません。これで、温泉に入れますか」
差し出された掌の上には、小銭がわずかに乗っていた。百円玉が三枚、五十円玉が二枚、十円玉が数枚。合計しても五百円に届かない。
私は言葉を失った。旅館の日帰り入浴料は、大人八百円、子ども四百円。
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引用元:https://www.youtube.com/watch?v=629C_j9_Mjg,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]