港町の市場は、夜明け前から息づいている。潮の匂い、氷を割る音、競り人の声。その中心に、魚屋「浜吉」を構える店主――佐伯誠一はいた。五十を過ぎても背は真っ直ぐで、包丁は迷いなく魚の骨を外す。彼の手が触れた魚は、まるで命の形を整え直されるように美しく並ぶ。
だが、誠一は“匂い”だけはどうにもならないと知っていた。仕事着に染み込んだ魚の香りは、誇りであると同時に、他人にとっては嘲笑の材料にもなる。
その日、市役所主催の慈善コンサートが開かれた。誠一も地域の協賛者として招かれ、控えめな黒いスーツで会場に足を踏み入れた。ところが、ロビーで若い男が鼻をひくつかせ、あからさまに顔をしかめた。
「……魚臭い」
囁きは近くの数人に伝染し、視線が針のように集まる。
「場違いだろ」
笑いが小さく波打った。
誠一は何も言い返さなかった。怒りよりも、胸の奥が冷える感覚が先に来た。魚屋としての生き方を否定された気がしたからだ。
彼は黙って席へ向かい、誰よりも静かにプログラムを膝に置いた。
舞台では地元の演奏家たちが次々と演目を終え、終盤に差しかかった。ところが、メイン奏者が急病で来られないという知らせが舞台裏に走った。会場はざわめき、司会者は硬い笑みを浮かべながら、時間をつなごうとしている。
記事はまだ終了していません。次のページをクリックしてください
引用元:https://www.youtube.com/watch?v=3O2ioOs-MGw,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]