パリ左岸の小さなビストロ「ラ・リュミエール」。夕刻の厨房は、鉄鍋が鳴り、ソースが煮詰まる音が壁に跳ね返り、熱と香りが人の神経を昂らせていた。そこで皿洗いをしていたのが、六十代の日本人女性――山岸澄子である。
彼女は背筋を伸ばし、泡立つ湯の中で皿を一枚ずつ確かめるように洗う。
手つきは静かだが、無駄がない。水滴の落ち方まで計算しているかのようだった。
その日、厨房は最悪の流れに飲まれていた。客席が満席になり、前菜が遅れ、メインの火入れが狂い、ホールからは焦った声が飛ぶ。
「シェフ、テーブル七、まだです!」
怒号で応えたのはフランス人シェフのジュリアン・ベルトラン。若くして評判を得た男で、プライドは鋭利な包丁のように立っていた。
ジュリアンはソースパンを乱暴に置き、苛立ちを皿洗い場へもぶつけた。
「おい、皿が足りない! 何をしている!」
澄子は短く頭を下げ、淡々と答えた。
「すぐにお出しできます。ですが、今の魚のソースは――少し甘味が立ちすぎています」
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引用元:https://www.youtube.com/watch?v=shWE0-BGxpk,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]