社内に張り詰めた空気が流れたのは、一本の電話が総務に入った瞬間からだった。
「〇〇大学から、弊社の専務・桐生さんへ講演依頼です。テーマは“現場から学ぶ組織改革”――だそうです」
その言葉を聞いた途端、周囲はざわついた。桐生専務は有名国立大卒、華々しい経歴で社内でも“次期社長候補”と持ち上げられる存在だ。講演など、まさに彼の得意分野――誰もがそう思った。
だが、当の本人は依頼書に目を通すや否や、鼻で笑った。
「Fラン大学? こんなところに俺が行く必要あるか? ……中卒のお前で十分だろ」
そう言って指を刺されたのが、俺――現場上がりの課長代理、坂口 恒一だった。
一瞬、耳を疑った。俺は確かに中卒だ。家が貧しく、働いて弟妹を食わせるために高校も諦めた。だが、現場で叩き上げ、泥まみれで数字を作り、ようやくここまで来た。誇りもある。しかし、講演など経験したことはない。
「専務、それは――」
言いかけた俺を遮り、桐生専務は楽しそうに口角を上げた。
「断れるはずがない依頼なんだろ? だったら行け。お前なら“現場の話”ってやつができる。大学生にはちょうどいい娯楽だ」
周囲の社員が気まずそうに視線を逸らす。俺の喉が熱くなった。屈辱――そう言ってしまえば簡単だ。しかし、次の瞬間、俺の胸の奥で何かが切り替わった。
断れるはずがない? なら、受けて立つしかない。
総務が確認の電話を入れた。桐生専務は受話器を奪い取り、わざとらしいほど明るい声で言い放った。
『是非! 喜んでお引き受けします』
その「是非!」が、まさか俺に向けられた承諾だと、相手が理解していたかどうかは分からない。
記事はまだ終了していません。次のページをクリックしてください
引用元:https://www.youtube.com/watch?v=3Vj1biJrBnw,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]