結婚して三年目の春、俺は何度目かのため息をつきながら、食卓に並んだ夕食を見下ろした。味が悪いわけではない。ただ、どこか“整っていない”。皿の配置、味噌汁の温度、床のわずかな埃――そんな些細なものが目につくたび、俺の胸の奥がざわついた。
俺の母は完璧だった。早朝に起きて家中を磨き上げ、父の弁当も彩りよく詰め、家計簿も一円単位で管理する。
帰宅すればいつも同じ香り、同じ温度、同じ安心。俺にとって家庭とは、母が作った“揺るがない秩序”そのものだった。
だからだろう。俺は、妻の美咲に同じものを求めてしまった。
「母みたいに完璧に家事してくれない?」
その言葉を口にした瞬間、美咲の手が止まった。洗い物の泡が、指先から静かに落ちる。彼女は何も言わず、ただ一度だけ瞬きをした。その沈黙が、妙に長く感じられた。
「……わかった。努力するね」
微笑んだはずなのに、その笑みは薄く、どこか遠かった。
それから美咲は、明らかに変わった。仕事から帰っても休まず動き、洗濯物を畳む速度は増し、台所に立つ時間も長くなった。俺が求めた“理想”へ近づこうとしている――最初はそう思った。
だが、同時に彼女は痩せていった。目の下の影が濃くなり、笑う回数が減り、ふとした瞬間に壁に手をつくことが増えた。
「最近、顔色悪くない? 病院行ったら?」
「大丈夫。ちょっと疲れてるだけ」
そう言いながら、美咲は湯呑みを持つ手をわずかに震わせた。見て見ぬふりをしたのは俺だ。母ならそんな弱音を吐かない、などと、訳のわからない比較を心のどこかで続けていた。
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引用元:https://www.youtube.com/watch?v=qhkA4gLTtMY,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]