かつて「島流し」という刑罰が、処刑に次ぐ重さを持っていたことをご存知でしょうか?現代においては、情報と交通網が発達し、離島での生活もさほど不便ではありませんが、昔の日本において、島流しは「生き地獄」と呼ばれるほどの絶望的な状況を意味していました。今回は、そんな島流しの実態と、そこに送り込まれた人々の暮らしについて迫っていきます。
島流しは紀元前から世界各地で存在していましたが、日本においても約1500年前の古墳時代中期からこの刑罰が行われていた記録があります。最初に島流しに処された人物は、天皇の娘でした。彼女は兄である皇太子との禁じられた恋に陥り、それが発覚したことで、天皇は娘を四国へと追放しました。当時の日本では、奈良周辺が政治の中心であり、四国の地へ送り込まれることは事実上の死刑に等しいものでした。
時が経ち、7世紀になると、大宝律令が制定され、流罪が正式な刑罰として確立されました。この時代の日本は、中国の律令制度を模倣しており、処刑が最も重い刑罰とされていました。しかし、仏教の影響が広がると、生き物の命を奪うことが卑しいとされ、処刑に代わる刑罰として島流しが適用されるようになりました。
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