当時の亜紀について、クラブのママが述懐する。
「亜紀ちゃんの日給は七千円だったはずよ。でも、(昭和)四十五年と覚えてるけど『レコード出したからキャンペーンに行く』と言って出てったまま戻らなかったわ。借金、といってもお客のツケだけど、三十万円か四十万円残したままね。まあ、お嬢さんタイプで礼儀正しく、お客の評判もよかったけど、ホステスとしては失格でした」
このクラブには「三谷謙」という歌手もいた。のちの五木ひろしである。
「五木とは親しくしていて、あれこれ面倒をみてもらっていたんじゃないかな」(同)
これは確かで、テイチクに入社できたのも五木の紹介と、隠れた骨折りによる。
四十七年には、亜紀は『愛は死んでも』というデビュー・レコードが出せた。
でも、ほとんど売れなかった。高田馬場のアパートで自殺未遂をしたのは、それに悲観してのことだった。
まともに三食とれる経済状態ではなかった。
お人好しの五木は、自分も似た境遇にありながら、その亜紀を支援。
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引用元:https://www.instagram.com/p/B9DjWpBnKpy/?igsh=MzRlODBiNWFlZA==,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]