大河ドラマ「光る君へ」(NHK)で描かれる皇后・定子(高畑充希)と一条天皇(塩野瑛久)の死別。その背景には、平安文学の研究者である赤間恵都子さんが語る、定子の短い人生に潜む深い悲劇があった。
天皇の妻となって11年、3人の子を残して崩御した定子
皇后定子が崩御したのは、長保2年(1000年)12月16日の早朝のことでした。一条天皇が11歳で元服するとすぐに入内し、11年の月日を共に過ごしました。その6年目に父・関白道隆が亡くなると、定子の運命は大きく揺れ動きました。兄弟の伊周・隆家が左遷された長徳の変をはじめ、定子の周囲には次々と不幸が襲いかかりました。『枕草子』には定子の不幸についてほとんど言及されていませんが、史実に基づけば、彼女の最後の滞在場所は三条宮で、そこでは幼い皇子・皇女と共に過ごす姿が見られました。
三度目の出産後に体力が尽きてあっけなく亡くなった広告
『権記』は、定子が崩御した時の様子を詳細に記録しています。前日の12月15日、東西の山に二筋の白雲が月を挟むという天象が現れました。そして翌16日の朝、定子の崩御が報告されました。
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