昭和のプロ野球には、今では考えられないような球場が存在した。熱狂が安全を飲み込み、観客の興奮と興行の都合が、選手の命よりも前に出ていた時代である。その象徴とも言えるのが、大阪球場、川崎球場、後楽園球場の三つだった。
まず語られるべきは、大阪球場だ。見た目こそ南海ホークスの本拠地として親しまれた名球場だったが、内野席の傾斜は異常だった。
その角度はおよそ三十七度。遊園地のジャンプライドと同じほどの急勾配で、上段から見下ろすグラウンドは、もはや観戦というより崖の上から試合をのぞくような感覚だった。
それでも当時の観客は、その危うささえ熱気として受け入れていた。だが、さらに信じがたいのは雨天時の対応である。試合が中断すると、グラウンドにガソリンをまき、火をつけて乾かし、強行再開させたという話まで残っている。今なら即座に大問題となる行為だが、昭和の現場では「試合を続けること」が何より優先された。利益と熱狂が、安全という言葉を簡単に押し流していたのである。
次に挙げるのは川崎球場だ。こちらもまた、現在の球場安全基準から見れば、あまりに危険な造りだった。
特に外野フェンスには、選手を守るという発想がほとんどなかった。そこにあったのは、ただの硬い壁である。
一九七七年、阪神の選手がこのフェンスに激突し、頭蓋骨陥没という重傷を負った。全力で打球を追う外野手にとって、フェンスは避けられない存在だ。それにもかかわらず、当時の球場には衝撃を和らげる設備が十分ではなかった。命を削るようなプレーが、当然のように行われていたのである。
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引用元:https://www.youtube.com/shorts/GGEKdC6oE4I,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]