デパートで会社の役員夫婦に声をかけられた瞬間だった。妻が会計で取り出した財布は、角が擦り切れ、ガムテープで継ぎはぎされた古いもの。視線が集まる。俺の胸に走ったのは、情けないほどの“恥”。帰宅するなり怒鳴った。
「なんでそんなボロボロの財布使ってるんだよ。俺に恥かかせるな」
妻は少し笑って「ごめんね」とだけ言った。
だが、違和感は消えなかった。クローゼットには十年前の服ばかり。食卓には半分の白飯ともやし。自分のための買い物はゼロ。ある夜、引き出しを開けて凍りついた。通帳が三冊。名目は、息子の大学資金、娘の将来の住まい、家の頭金。合計三千百万円。俺の給料は月四十万なのに、毎月二十五万が積み上がっている。
さらに奥から、給与明細の束。深夜のスーパー、早朝の清掃、在宅ワーク。カレンダーの裏には走り書き。
「睡眠三時間でも、家族の未来のため」
十年間、毎日だ。
最後の封筒を開いた。病院の診断書。慢性疲労、栄養失調。赤字で「このままでは突然倒れる危険あり」。三か月前の日付。治療せず、金はすべて貯金へ回していた。
玄関が開く音。「ただいま」
顔を上げた妻と目が合った。俺は崩れた。
「ごめん。俺が間違ってた。もう一人で背負わせない。今度は俺が守る番だ」
翌日、俺は副業を始め、家事も引き受けた。妻を病院へ連れていき、休ませた。数か月後、妻は回復。新品の財布を渡すと、彼女は古い財布も胸に抱いた。
「これは私の勲章だから」
あの夜から、俺は“面子”より“家族”を選んだ。
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